記事を見て思い出すこと

何か最近こんなんばっか。
ryzenのエンコ能力が良いこととか、intelSSDの発熱で度々警告がでることとか、ネタはあるにはあるがPCの何かに触ると壊すというトラウマがすごくて…。

そんなわけで当たり障りのないような話。
猛暑日、小学生がスーパーでカルピスを「会計前」にガブ飲み! 後で払えば問題ない?
アメリカのスーパーだと普通の光景でおそらく大抵の日本人はカルチャーショックと思うのだが、もちろんin japanではアウトでしょうね。
何故なのかはリンク先に弁護士さんが書かれているので参照してもらうとして、子供の監督責任というところでちょうどツイッターで上がった話。

お店の障子紙を子供が破いたとの話。
こういう類のことは昔からあることで、実家の障子もそんなだし、旅行先のホテル旅館でも見かける悲しい姿の障子。
子供がいるといないではそういう光景を見る確率は段違いだろうし、また、それを速やかに直す直さないは品位の問題。
破れにくいプラスチックフィルムで加工した丈夫な障子紙を推奨します、これ効果絶大。

と、話がそれた。
昔からあるから善し悪しどうのの話ではなく、私自身の話をちょっと。
以前四国に行ったとき、ある山で展望台から小さな瓦を投げると幸せになる(うろ覚え)とかで、それをやったことがある。
で、直後私の後頭部にそれが直撃。
え?前に投げたよ?
鳩が豆鉄砲状態で理解できずに周囲を見回すと、隣のおじさんが、
「子供がやったんだから許しておやり」(的な感じ)
で言い放った。
この間約5秒くらいか。
犯人もわからず、極めてスムーズに事は終結したわけだ。
あの場では。

これからがポイント。
おじさんの話が本当だとして、子供のことを考えるとあのおじさんの済ませ方は極めて悪い行為。
黙っておけばいいと大人がそれを見せてしまっている悪例だ。
もしおじさんの立場なら、「あの子だよ、やったの」「君、ちゃんと謝れるかい?」「子供相手にそんな発憤しなくても」くらいが妥当なわけだ。
それを丸く収めたつもりで、今もまだその悪習に気づいていないなら悲しいことである。
そしてその当事者の子供がかわいそうである。
ことのけじめの付け方を教えてあげるのは大人の責務。
社会通念を教えてあげる絶好の機会なのだ。
それを放棄しているのだ。
私は高校生の時分より教育の放棄というのが世の中で一番の愚行であると思っているので、それについては少々うるさい。
なので抑えて続けるが、障子紙の話も瓦の話も、まず第一に悪いことをしたのだという認識を持たせること、次にそれを失敗だと認識できたところでどうすればそれをリカバリーすれば良いかを教えること、これが極めて大事。
成功体験は人間の成長に必須項目であるが、失敗体験、そしてそれの回復体験もまた成長に寄与するのである。
逆説的に、成功も失敗も気づかないとそもそも成長できないのである。
気づかせてあげる、それが大人のすべきこと。
褒める、叱る、教える、である。

お店の人は弁償しろとは言わない、ただ一言もなかったことが悲しかった(のかな)ということを書いていて、おそらく瓦の件の際にもし犯人がわかったとしてそれを怒ることはしないよ、私も。
むしろ良く謝れたねと褒めるくらい。

こんな話が出るのもネットが極めて普及していることだからだろう。
今も昔もあって、多分推測だけどきっと品位自体は上がっている(比較が昭和、今でいうところの発展途上の中国)と思うのだよ。
ただ話題として突然現れただけのこと。
ちょっと思い出してしまった。

コメントを残す